男を磨く「身銭」の切り方
山口瞳氏が書いた「酒呑みの自己弁護」というエッセイのなかに、生前の梶山季之氏との交友にふれた一編がある。
梶山氏は、山口氏より四歳年下だったが、酒席の払いはすべて梶山氏がもったそうだ。
親分的風格のある梶山氏がやると、これが少しも不自然でなく、いつしか二人の間で暗黙のルールになったという。
おごる、おごられるが当たり前の日本人社会でも、これは珍しいケースだと言える。
おごられたら、つぎはお返しをするのがふつうであり、その微妙なバランスの上に我々の人間関係が成り立っているからだ。
第一、師弟間など特殊な上下関係を除けば、おごられるほうはつねに相手に対して精神的負担を感じなければならず、その関係が長続きしないものである。
とは言え、私自身の経験からあえて言えば、相手がおごられることを極端に嫌わないかぎり、おごる立場にまわるほうがずっとメリットが大きいことはたしかだ。
なぜなら、支払いを負担することで相手に引け目を感じずに済み、対等な付き合いができるからである。
梶山、山口氏の場合も、ふつうおごられる側の年の若い梶山氏が、二人の間にフランクな関係をつくるためにとった方法だと考えることができよう。
また、相手からの見返りを期待したり、最初から歓心を買うつもりでおごる場合もある。
このやり方は、神経がこまかく、相手の顔色が気になって仕方がないような人にとって、とくに有効である。
おごられるより、おごる側にいつも自分を置くことで、精神的安定が得られ、その余裕が相手への”苦手意識”を軽くしてくれるからだ。
ただし、相手かまわずむやみにおごりまくるのは、嫌味になるばかりか劣等感の裏返しだと思われて損である。
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