多様性からの創造
ところで難しいのは、意味づけとこじつけの識別である。
たとえば私はエレベーターの中で財布をすられたことがある。
「交通事故にあったことを思えばまあいいさ」と私は自分を慰めた。
しかし、こんな考え方もある。
「将来、もっと大金をすられることもある。そうならないためにはどうしたらよいかを今回の失敗は教えてくれたのだ」と。
両方とも意味づけには違いない。
つまり意味づけとは受け取り方のことである。
ところが受け取り方にも、現実性の高いものと低いものとがある。
こじつけとは現実性の低い意味づけである。
いわゆるへ理屈がそれである。
意味づけとこじつけ(へ理屈)とはともに私たちが心理的苦痛をのりこえるひとつの方法であるが、こじつけのほうは自己防衛的である。
まやかしである。
意味づけのほうは自己主張的である。
つまり守勢か攻勢かの差がある。
意味づけはそれによって行動が変容する。
こじつけのほうは現状維持(防御)の方便である。
意味づけは創造活動である。
したがって精神が自由でなければならぬ。
「ねばならぬ」に縛られていては創造的になれない。
ありきたりの意味しか見出せない。
四角四面な修身の教科書のような人物には新しい意味の創造は難しい。
どうしてもステレオタイプの見方しかできない。
習慣からはみ出すまいと恐々としてしまう。
しかし、精神の自由だけでは不充分である。
精神内容がなければ創造活動はできない。
そのためにはふだんからさまざまの意味づけ(人の生き方)にふれておくことである。
創造性は無から出てくるものではない。
既存のものを徹底的に知り尽くしたとき、既存のものの間に新しい関係を発見する。
それが意味づけである。
私たちはしたがって、自宅と職場をピストン運動するだけでは創造性は育てられない。
さまざまの考え方・感じ方・表現法にふれているうちに、おのずから自分の意味づけができるようになる。
特定の誰かに教えられて、ある特定の考え方(意味づけ)しかできなくなってしまった人間は、自分で自分の人生の意味をクリエートすることができない。
たとえばマルクスは沈思黙考しているうちに唯物弁証法を思いついたわけではない。
フォイエルバッハの唯物論やヘーゲルの弁証法にふれながら自分の考えをクリエートしたのである。
フロイドも沈思黙考しているうちにふと精神分析を思いついたわけではない。
神経生理学やフェヒナーの精神物理学、さらにはベルネームやリエボーの催眠療法にふれながら自分の考えをクリエートしたのである。
このように創造のためには多様なものにふれる必要がある。
人生に対する受け取り方、意味づけでも同じことである。
狭い世間しか知らない人間は人なみの受け取り方しかできない。
それゆえ私たちはちがう年代、ちがう地域、ちがう性、ちがう職業、ちがう地位、ちがう文化の人たちとできる限り接触するのがよい。
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