人間関係の心理のあれこれ

人間関係が怖いを楽にする方法についてつらつら綴っていきます。

転職の留意点

転職すべきではないという考えにこだわらない方がよいときいて、「それならば・・・」と転職志向の人たちがふるい立つかもしれない。


そこで若干の留意点を述べておきたい。


まず第一は、あることが好きだからといって、上手にそれがこなせるかどうかは保証できないという点である。


好きこそものの上手なれという諺があるが、職業心理学の研究では興味と能力の相関関係は高くない。


むしろ「下手の横好き」という諺の方が事実に近いのである。


それゆえ、喫茶店の経営が好きだからといって店が繁盛するかどうか、車が好きだからといって無事故で通せるか、英語が好きだからといって英語で講義できるか、と自問自答した方がよい。


私は中学校教諭になりたくて教育実習をしたが、さっぱり活気が出ず、生徒は見向きもしてくれず、自分は教師の能力に欠けているのではないかと思い出した。


実は私は教師になりたくて高等師範学校を選び(旧制高校にも合格したがそれを放棄し)、教育大学では教育学専攻を選んだ(心理学を専攻しようと思えばできたが)。


私はそれほどに教職には興味があった。


ところが思ったほどには能力がなかったのである。


そこで転職する前に、はたして自分は能力があるかを確かめるとよい。


私は運よく社会人になる前に二週間の教育実習で自己評価できたので好運であった。


能力の有無は実際に仕事をさせてもらうのがいちばんまちがいない。


アメリカの教授が学生に夏休みのアルバイトをすすめる理由もそこにある。


四年間の在学中に、四回職を体験すれば、自分の興味と能力がはっきりするであろうというのである。


第二の留意点は、興味で仕事の領域を絞ってから(例―人間対象か、もの対象か、抽象世界対象か)、能力を考慮してレベルをえらぶ(例―ラインの長になるか、スタッフになるか)のがよい。


今の高校生にドロップアウトが多いのは、能力を第一の目安にして学校を選ばせるからではないか、そのために興味のない学校に入学せざるをえない生徒が多いからではないか、と私は推論している。


まず興味で選びそれから能力でレベルを決める方が後悔する率は少ない。


では自分の興味をどうして知るのか。


広く体験することである。


食わず嫌いはよくない。


その点、小学校教育は理想的である。


文系、理系、体育、美術、対人関係、演劇、合宿、運動会、書道など多様な世界にふれさせてくれる。


それゆえ自分の興味が触発される。


それゆえ、おとなになってからも自力でおとなの小学校教育を自分に施していくのがよい。


アメリカの大学院教育がそうである。


博士課程でも小学生に対するように幅広く講義し、多読させ、多様な科目をとらせる。


それゆえ学生の興味の領域は広くなる。


興味の領域が広いということは転職の機会が多くなるということのほかに、人を指導する立場に立った場合に面倒見がよくなる。


たとえば私はバレーボールに興味がないのに、バレーボール部の顧問を十数年つとめた。


十数年つとめたが辞めるときに送別会の送の字もなかった。


つまりそれほどに、私は面倒見がわるかったのである。


第三の留意点。


転職するとはキャリアをつくるということである。


この場合、自分のイメージしているキャリアをすでに成功裡に達成した人物を知っているなら、なるべくその人物を模倣することをすすめたい。


自己流で孤軍奮闘しながら新しい人生をつくるよりは、参照できる手本を持っている方が不安が少ないからである。


ところで模倣の対象にする人物は歴史に名が残る人物である必要はない。


隣のおじさんでもよい。


小学校時代の恩師でもよい。


自分が模倣したい人物、そして人生コースの決定に影響を受けた人物のことをキーパーソンという。


たとえば私のキーパーソンは霜田静志、ウィリアム・ファーカー、アルバート・エリスであった。


霜田は私の精神分析であり、私が心理学教授の道をえらぶきっかけになった教授、ファーカーはアメリカ時代の指導教授(ミシガン州立大学)でリサーチ(研究法)になじませてくれた先生、エリスは論理療法の創始者で私のバックボーンになった人物。


私がキーパーソンの大切さを強調する理由は、自信喪失した教師たちの相談相手になっているうちに気付いたことがあるからである。


周知のように今は荒れた学校が多い。


そのために疲れはて、自分は教師失格ではないかと思い込む教師が少なくない。


ところが私の観察によれば、こういう教師の共通性は、小学校以来、自分もあんな先生になりたいと思うような教師に出会ったことがないということである。


つまり、すばらしい教師、頭をたれたくなるような先生を見たことがない。


それゆえ、結局は読書から得たイメージで教師ぶりを自己流で演じているだけである。


それゆえ少し困難な状況におかれると、どうしてよいかわからない。


身体にしみ込んだものがないからである。


たとえていえば、実父を乳児の頃に失い、父を見たことのない男性が子を持つ父親になった場合、父親としての自分はどういうふうに子どもに対処していいのか、今一つ自信がないのと似ている。


一方、模倣の対象を持っている教師は、心のなかに絶えずその人物がいるわけで、心の支えを持っている。


それゆえ不安が少ない。


大人になってからでもおそくはない。


模倣したくなる人物との出会いを求めるつもりで人生を歩むことをすすめたい。