人間関係の心理のあれこれ

人間関係が怖いを楽にする方法についてつらつら綴っていきます。

精神的なものが精神を覆い隠す

わが国では高校野球の人気は絶対なものである。


私もかつては好きでテレビで見ていた。


野球の技術についてはそれほどわからぬにしても、ジーンとなるような瞬間がある。


ところが最近はだんだんとあまり熱心ではなくなってきた。


どうしてかと考えてみると、高校野球そのもののためではなく、それを取り巻くいろいろな条件のためらしい。


まず第一に、解説や評論などが「精神力」というようなことをいいすぎるのだ。


高校野球の時期が来ると夏物一掃の大安売のように、心、魂、精神などという言葉の投げ売りが開始される。


「いいプレーだな」と思っているときに、アナウンサーや解説者が精神の大安売りをやってくれるとゲンナリする。


純真な球児などというイメージを誰が売りものにし出したのか知らないが、それを保持するために「連帯責任」という陰湿な方法によることになる。


ある生徒が非行をしたといって、その学校の生徒たちが野球に出場できない、というのがどうして教育的か。


その非行を行なった生徒を野球部に入部させ、皆で大いに頑張ることになる方が教育的のように思われるのだが。


高校野球連盟でも重きをなし、高校野球の解説もしていた人が、芳しからぬことをしてマス・コミをにぎわせた。


おそらく高野連の役員とか解説者が「連帯責任」をとっておやめになると思っていたが、別に何事も起こらなかったようである。


これでとうとう連帯責任は中止になったのかと思っていたら、相変わらず生徒の方には行なわれているらしい。


指導者の人達が、自分の責任は棚上げにして生徒たちにのみ押し付ける「精神力」には感服させられるが、それは私がかつて高校野球のシーンをみて感じた精神の輝きとは別種のものである。


私は「精神」が嫌いなのではない。


「ソウル・メーキング」などということさえ書いたくらいだから、心、魂、精神などということには深い関心をもっている。


しかし、それは、それらのものを直接的に知ることはできないにしても、そのはたらきが、われわれが目で見、耳で聴き、手で触れるもののなかに、ほとんど直接と言いたいほどの形をとって顕われてくることに、関心をもっているのであって、それについてあまりガヤガヤ言うのは好きでないのである。


そんなことを考えていたときに、頭書の言葉に出会った。


これは白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』のなかに、青山二郎の言葉として紹介されていたものである。


青山二郎は小林秀雄の親友であり、ひたすらに「美」を追求した人である。


もし「精神」などというものがあるなら、それは何らかの形として顕われているはずだ。


それを見たり、それに触れたりしてこそわかるのに、「精神的」なことをとやかく言うので、それが「精神」を覆い隠してしまう、と青山二郎は嘆くのである。


こんな言葉を知ると、自分を反省せざるを得なくなってくる。


高校野球の悪口を言って喜んでなどいられないのだ。


何か精神的なことを言いたくなったり、言ったりしたときは、自分が「精神」ということからズレていたり、逃げようとしたり、それについてはっきりわからなかったりしているときだということが、わかるのである。


この言葉はなかなか素晴らしいもので、「〇〇的なものが、〇〇を覆い隠す」というようにして応用すると、いろいろなところに使えるように思えるのである。


たとえば、われわれは自分が「西洋的」と思うことを学んだり、真似をしたりしているが、それは真の「西洋」の姿を覆い隠すことになっていないだろうか。


逆に、これで「日本的」というようなことを外国に売り出して、それによって真の日本の姿を外に対して覆い隠すようなことをしていないだろうか。


こんなことを考えると、われわれは今や周囲を「テキ」に囲まれて生きているような錯覚さえ生じてくるのである。


こんな冗談を言っていると、まったく逆の考えさえ心に浮かんでくる。


つまり、人間はこのような「テキ」に囲まれて襲われるのではなく、このような「テキ」を防壁として用いることによって、安心して生きているのではないかということである。


精神の直接体験は人間には荷が重すぎる。


あるいは衝撃が強すぎる。


そこで「精神的」な言辞を用いることによって、自分を守ろうとするのだ。


「精神的」解説に酔うことによって、精神に触れたときのショックを緩和しようというわけである。


このように考えると、精神的解説にメクジラ立てて怒ることはないし、あれは保健衛生上の価値の高いものとも思えてくる。


ただし、それを「精神」と錯覚しないことは必要であろう。