ソウル・メーキングもやってみませんか
近代になってから、たましいは評判が悪くなって、居場所がなくなっているような感じがする。
もっとも、ごく最近は一種の巻き返しのように、あちこちで時には熱狂的に取り上げられたりはしているようだが、一般的には、それほど認められているものではない。
たましいのことを知りたい人は、ともかく昔の本を読むといい。
そこには沢山の「たましいの真実」が書かれている。
そんな意味で、私は日本の中世の説話集が好きでよく読んでいるが、その中に次のような話があった。
ある人が死んで冥界に行くと、立派な御殿が建ちつつある。
これは誰の住居かと訊くと、未だ生きている人の名前を言い、その人の善行に応じて、こちらに住む家が作られてゆくのだ、と説明してくれる。
結局、その人はもう一度この世に帰されて、このような話を語るわけだが、このようないわゆる冥界往還の話には教えられるところが多い。
この話によると、こちらの世界の行為に応じて、あちらの世界で住む住居が作られてゆくわけだが、その住居に住む期間を考えると、こちらの住居などほんの僅かで、あちらで住む方が途方もなく長いので、あちらの住居の方がよほど大切なことは誰でもわかるであろう。
とすると、こちらでのどのような行為によって、あちらの住居が出来あがってゆくのだろう。
こちらで豪邸を建てると、あちらにはそれに対応してどんな住居が出来あがるのだろう。
人を陥れては金を貯め、豪邸を建てている間に、あちらでは「竪穴式住居」が深く深く掘られてゆく、など考えてみると面白い。
住居だけでなく、こちらでやっているひとつひとつはあちらの世界での生活の準備になっている。
自分が何かをしようと決意したり、あるいは実際に行為しているときに、その結果としてこちらの世界に何がもたらされるかだけではなく、あちらの世界でどんな結果を生んでいるのかについても、時に考えてみてはどうであろう。
あるいは少し考え方を変えて、自分が死んだときにあちらに持ってゆけるものが、自分のたましいであると考えてみてはどうであろう。
財産をつくっても、もちろん持ってゆけない。
本を沢山書いたというので棺桶に入れて貰っても、あちらに行くまでに焼かれるくらいがおちである。
自分の体だって焼かれるか腐るかである。
私は常に背骨を正しく伸ばして生きてきた、と威張ってみても、骨も砕かれて壺に入れられてしまう。
閻魔さんの前に持っていって、これが私のたましいですと示せるもの。
そのようなたましいを生きている間にいかにしてつくるか、これがソウル・メーキングである。
ソウル・メーキングは大切なことだ。
しかし、このことが気になり出すと、この世での生き方が難しくなってくる。
他の人が五年後の自分の地位や財産がどうなっているかに心をつかい、それらをいかにつくってゆくかを考えているときに、何しろ百年後くらいの自分のたましいのことを考えて、それをいかにつくるかを考えるのだから、なかなかペースが合わないのである。
怠け者とか無気力とか言って非難されている人のなかには、このような人も居るのではないか、と私は思っている。
あるいは、ソウル・メーキングのことが何となくわかりかけているのだが、もうひとつはっきりとしないので、ともかくこの世のことで皆が必死になっていることが馬鹿くさいとは感じる。
しかし、それでは何をすべきかというと、何をしていいかわからない、という状態ではなかろうか。
いや、本当はソウル・メーキングにひたすら励んでいるのだが、われわれ凡人にはそれが見えないのかも知れない。
こんなことを思い始めると、怠け者ということで、同僚や家族からうとましく思われている人に、急に尊敬心が湧いてきたりするから面白いものである。
もちろん、この逆もあって、多くの人から尊敬されている人でも、ソウル・メーキングでは借金だらけなんて人もあるかも知れないのである。
じゃどうすればいいのかと訊かれそうだが、そもそもたましいなんてものが、あるのかないのかわからないし、どちらかと言えば、ないと思う方が常識じゃないか、というのだから、何とも答えようがない。
私も、たましいはあるなどと主張しているわけでもなく、それがあると考えて、たまにソウル・メーキングをやってみたり、それについて考えてみたりするのも悪くはないのじゃないかな、と提案しているのである。
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