劣等感と不安の心理
不安と向上心とは違う。
向上心からの努力は人を救うが、不安からの努力は人をさらに不安にする。
神経質的欲張りは、不安なのである。
努力していても、それは向上心からの努力ではない。
不安を動機とした努力である。
したがって、努力すれば努力するほど、ますます不安になる。
どんなに努力しても、幸せな日は来ない。
「名声に対する健全な努力と神経質的名声追求の努力の違いは、自発的か強迫的かにある」。
努力しないではいられないという努力は、向上心からの努力ではない。
理想とか完全を求める動機には二つある。
アメリカの心理学者、アブラハム・マズローの言葉を借りれば、一つは「欠乏動機」、もう一つは「成長動機」である。
わかりやすく簡単に言えば、一つは不安や劣等感から、もう一つは愛情からである。
あることをするときに、劣等感が動機でするのと、愛情が動機でするのとでは全く違う。
深刻な劣等感が動機で、”理想”とか”完全”を求めるのは、自分の劣等感を癒すためである。
人を見返すためである。
人に復讐するためである。
こういう人にとって大切なのは、自分の劣等感を癒やすことである。
だからこういう人は、現実を受け入れられない。
不幸を受け入れられない。
「不幸はしつこい」というが、深刻な劣等感のある人にしつこいのである。
どんなに環境が変わっても、不幸な人は、不幸。
幸せになるためには、努力すればいいというものではない。
幸せになれるか、なれないかの問題は、努力の動機である。
生き方、仕事のカンはこうして体に叩き込め!
一年六場所の相撲の本場所が近づくと、各部屋の稽古風景が、テレビなどでかならず紹介される。
一つの土俵のまわりに各力士が立ち並び、中で稽古しているのは二人だけといった稽古方法を見て、なんとも非能率的だと感じる人が少なくないようだ。
だが、一見非能率的に見えるこうした稽古方法は、相撲のカンを叩き込むためには、たいへん有効なやり方なのである。
つまり、他人の稽古ぶりや、強い人の立ち合いなどをじっと観察することは、「オレもこれぐらいになりたい」という高揚感を生み出す源泉となる。
と同時に、他人のやり方の中から優れたものをつかみとって、自分流にとりいれることもできるわけだ。
観察して得たものを、いざ自分の稽古の番になったときに試し、工夫して、自分なりに徐々に消化していくことで、力士は強くなっていくという。
これは心理学で言う”観察学習”であり、自分を変えたいと思う人には、たいへん効果的な方法である。
自分が引っ込み思案だ、消極的だと思ったら、自分にない積極性を持っている人を、まず、じっと観察してみればいい。
そのうちにあなたの心には、「私だって!」という気持ちが強くなってくるだろう。
そこであなたなりに相手のやり方をまねてみればいいのだ。