自分が自分の主人公になる
どうすれば融通の利かない道徳家の心境から解脱できるか。
自分は今やおとなである、ということを絶えず自分にいいきかせることである。
大人であるから子どものように人に気兼ねすることはない。
責任さえ甘受する覚悟であれば、自分のしたいようにすればよい。
子どもは責任を甘受する能力がないから、親の与えた道徳律の奴隷にならざるをえないのである。
融通の利かない道徳家の心境から解脱する第二の方法は、それをなしとげた人を模倣することである。
詩人、文学者、俳優、僧侶、サイコセラピストなど誰でもよい。
その人たちの思想と行動をつぶさに模倣することである。
私が学生たちに今東光『極道辻説法』をすすめるのも、そういう発想からである。
第三の方法は、文化人類学を学ぶことである。
価値観の多様性と相対性、これが文化人類学から学ぶべきものである。
二十年ほど前、アメリカの社会学者デイビッド・リーズマンが東大を見学したあとで、「日本の大学で足りないものが三つある。ひとつは精神分析、第二が文化人類学、第三は弟子制度の粉砕である」と「文芸春秋」に書いた。
こうでなければならぬと自縄自縛している人は、自分の「ねばならぬ」がけっして絶対的なものではないことを知らねばならぬ。
それには世の中にはさまざまの価値観があることを文化人類学から学ぶことである。
以上を要約すると、健全な人間とは自分がその場その場で自分の主人公になれる人のことである。
いい年齢をしてなおかつ、父や母やむかしの小学校教師の支配下にいてはならないということである。
そのためには、過去の成育歴のどの部分が今でも自分を縛っているかを発見することである。
気付けば行動を手加減するから、客観的には問題がなくなったのと同じである。
ここで思い出すのが釈迦の例である。
釈迦は火箸を熱くして、これを弟子に握れと求めた。
弟子はおそるおそる握った。
釈迦がコメントしているのに「この火箸が熱いことを知っているから火傷しないで済んだ。もし熱いことを知らなければ、思いきり握ったであろうから、今頃は大やけどしているはずである」と。
すなわち意識性の重大さを説いているのである。
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