理論なしには技術もない
技術軽視論者への第三の反論は、技術だけが個別に存在しているわけではないということである。
なぜそうするのか(技術)という理由がある。
その理由の出処は理論であり感情である。
理論あるいは感情の支えなしには技術を提唱するわけにはいかない。
たとえば、人の話に耳を傾けよ―「傾聴」とか「受容」という技術―と教えるのは、カタルシス(感情の吐露)、信頼感、リレーションが行動変容(悩みが消える)の条件になるという理論があるからである。
夜尿症の子どもを持つ親に「添い寝せよ」「一緒に入浴せよ」「本を読んでやれ」と育児技法を提唱するのは、夜尿は愛情飢餓に由来するという理論に立っている。
技術論を軽視する親の中には「愛がすべてである」と信じている人がいる。
愛という感情がいくらあっても愛を伝える技術が下手なら、子どもは親に愛してもらったとは思わない。
しかし愛(感情)がないのに技術だけで愛があるかのごとく思わせるのは無理がある。
見破られることが多い。
仮に見破られないとしても人生態度が真摯ではない。
そこで技術は心の表現法であるということになる。
伝えたい感情にぴったりの表現法(技術)を工夫するのは創造的作業である。
楽しいことである。
決して機械的な非人間的な作業ではない。
それゆえ最近は心を正しく表現する技術の訓練が注目され出したのである。
ひとつがソーシャル・スキル・トレーニング、もうひとつがアサーティブネス・トレーニングである。
前者は育児法、夫婦の付き合い方、デート法などいずれもハウツーの訓練、後者は人の心を傷つけないように上手に断る方法、頼む方法、クレームをつける方法、契約を結ぶ方法など要するに自分を打ち出すハウツーの訓練。
すなわち理念や哲学だけでは解けない問題があることを世人一般が気づき出したといえる。
ただしハウツーを提唱しえない哲学や思想は使いようがないと言っているわけではない。
技術を持たない哲学・思想でも、人の認識の仕方、判断の仕方―つまり思考―を変えることがある。
思考が変われば感情や行動も変わる。
それゆえ、理念志向の学問は役に立たぬと排斥しない方がよい。
話を元に戻す。
技術(ハウツー、行動)は理論(思考)と愛情(感情)のあるところに存在している。
技術だけが独立してあるわけではない。
これが以上の要約である。
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