ふれあいがなくても生きていける
さまざまの人間と接しているうちに、どうしても、あの彼、あの彼女とは深く付き合いたくない、縁を切りたいということもある。
深く付き合いたいが相手がこちらを好いてくれないこともある。
あるいは相互に深く付き合いたいが、なかなか心が今一つふれあわないことがある。
これは止むを得ない。
そう考えるべきである。
嫌いなものをしいて好きになろうとすると、ますます苦しくなる。
好きではないが、どうしたらこの人と一緒に暮らせるか、と考えればよい。
心がふれあわなくても、つきあいがあまりなくても、お互いが自分の役割を果たし合っている限り、二人の仲は存続する。
ふれあいがあるにこしたことはない。
しかし、なければないで、自分は生きていける。
そう自分に言い聞かせる。
今回はたまたまふれあいがもてなかったが、そのことは、今後の人生ですべての人からふれあいを拒絶されることを意味しているわけではない。
「けっして絶望に陥ってはならない。ふれあいがあるにこしたことはない。しかし、なければそれも止むをえない」このことばをお経のように自分にいいきかせるとよい。
ただし、ふれあいがないといっても、自分に勇気がないために、ふれあいがもてない場合がある。
その場合には前述のように「それも止むを得ない」とはいうべきではない。
たとえば大学紛争がそうであった。
教授は学生の訴えがよくわかる。
しかし、わかった、といえば学生の陣営に与してしまう。
そこでわざとわからないふりをする。
頑固といわれようと反動分子といわれようと、わかってはならないのである。
人工的・意図的なアパシーである。
無感動である。
なかには勇気を出して学生の気持ちがよくわかると宣言し、学生とのふれあいは体験したが、大学当局からは窓際族に追いやられた人もいる。
自分が臆病なためにふれあいがもてないことをごまかして「ふれあいがあるにこしたことはない。しかし、なければそれも止むを得ない」といってはならない。
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