己を殺して他人を殺す
「己を殺す」ということは、ひとつの美徳と考えられている。
克己という言葉もあるが、「己を殺す」方は、少し克己からずれてゆき、しかも、それが少し度を越すと、あらゆる美徳がそうであるように、他人に害を及ぼしはじめる。
ある女性は、幼いときから他人の言うことをよく聞き、自分のやりたいことや言いたいことは常に後回しにして、「己を殺して」生きてきた。
このために、大人しい子とか、いい子という評判ができて、そのような生き方がますます身についてきた。
高校でも教師の受けがよかったので、高校卒業後、いいところに就職することができた。
暫らくはよかったが、そのうちに自分が職場であまり好かれておらず、しかも、まったく驚いたことに、「勝手者」だという評判がたっていることを知ったのである。
彼女にとってこれはまったく不可解なことであり、途方にくれてカウンセラーのところに相談に来た。
「己を殺して」生きてきているのに、「勝手者」などと言われては、どうしていいかわからない、と言うのである。
しかし、カウンセラーと話合いを続けているうちに、彼女自らが次のようなことを悟ることができた。
「己を殺す」と言っても、やはり自分は生きているのだから、自分を殺し切ることなど出来たものではない。
言うなれば、己の一部分を殺すわけであるが、面白いことに、その殺された部分は何らかの形で再生してくるようである。
あるいは、殺したつもりでも、半殺しの状態でうめいているかも知れない。
とすると、このように、本人も知らぬ間に再生してきたのや、半殺しの存在やらが、本人の気づかぬところで、急に動き出すこともあるはずである。
彼女の場合、彼女はいつも自分の考えや欲望を殺して生きてきているつもりなのだが、他人から見ると、急に途方もなく勝手なことをするように思えるのである。
皆が楽しんでいるときに、座が白けるようなことを、ぱっと言って平気でいるとか、非常に大切な仕事があるときに、それほどにも思えないのに、体調が悪いので早退します、と帰ってしまったりする。
要するに、どこかでチグハグしてきて、他人から見ると、ここぞというところで勝手なことをする、ということになるし、しかも、平素な大人しくしているので、その行為が余計に目立つのである。
彼女に言わせると、いつも辛抱して生きているので、時にはたまらなくなって、少しぐらい休んだり、息抜きしたりしても当然ではないか、ということになるが、そのタイミングは、もっとも不適切だ、ということになる。
これは、彼女のなかで殺されたものが生き返ってきて、復讐をしているようなもので、こんなときは、見事に他人を殺すことをするものである。
彼女の一言が、盛り上がってきた一座の気分を殺すとか、他人の好意を無にするとか、友人の窮状を見殺しにするとか、いろいろなことをやってくれるのである。
そして、このようなとき、彼女自身はその重大さを認識していないことが多いのである。
だからこそ、「勝手者」などという烙印を押されてしまうことになるのだ。
己を殺していることが、知らぬ間に他人を殺すことにつながってくるので困ってしまう。
とすると、己を殺すよりも己を生かすことに努力すべきだということになろう。
しかし、これも話はなかなか簡単にはいかないのである。
己を生かすことによって、他人をも生かすことを考えればよいことはわかっているのだが、これも存外難しい。
己を生かそうと思って、自分のしたいことをすると、それこそ「勝手者」だということになりかねない。
特にわが国では、他と協調すること、他と変わったことをしないこと、が尊ばれているので、どうしても自分を生かす生き方に難しさを感じるし、ついつい、自分を殺す生き方を選ぶのではないだろうか。
従って、「己を殺す」ことが「己を生かす」ことよりも美徳として考えられることが多く、例としてあげた女性のような失敗が生じてくるのであろう。
己を生かすにしろ殺すにしろ、どちらも難しいことで、どちらがいいなどとは簡単に言えない。
大切なことは、どちらか一方を美徳と規定してやり過ぎをしないことであろう。
「己を殺す」生き方の好きな方は、自分が殺したはずの部分が生殺しの状態で、うめき声をあげて近所迷惑を生じていないか、とか、自分の殺した部分が、思いがけずに生き返って、他人を殺すために活躍していないか、などと考えてみることが必要であろう。
自分を見事に殺し切って、それが新しい自分として再生してくるのを明確に知るのは素晴らしいことであるが。
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