不安を逆用して自分を強くする森田療法
神経症は心理的な病気であり、精神的なストレスあるいは性格の偏りから生じてくる。
そして、患者がいくら「具合が悪い」と訴えても、その訴えに相当するような器質的な病気が発見できないものを言う。
病気の診断を下すのは自分ではなくて、専門家の医師なのである。
そもそも身体が前後左右に動くといっても、それは誰にでもあることである。
直立不動の姿勢をとるといっても、地面に棒を突き刺したように微動だにしないという姿勢をとり続けることはできない。
動くまいと思って静止したままの姿勢でいるつもりでいても、注意深く観察すると、人は誰でもかすかに動いているのである。
神経質の人がそれにこだわると、身体が動揺することがさも自分だけに生ずる病気のように思ってしまう。
起こっている現象は誰にでも見られることである。
問題は受け取り方なのだ。
この男性は、実際に倒れたことは一度もない。
倒れそうな気分になるだけである。
「倒れそうだ」ということと「倒れる」ということはまったく違うことである。
「死にそうだ」ということと「死ぬ」こととはまったく異なる。
一度倒れてみるとよい。
自分が病気であることを実証するためにはそれ以外に手はないではないか。
人と接すると緊張してしまう人もそうだ。
人と接する時の緊張にばかり神経を集中してしまうと、緊張はだんだん強くなっていく。
ウジウジ言ってばかりいないで、医師の指示どおり、バリバリ仕事をしてみることだ。
ビクビクしながらでもいいから、一歩を踏み出すことが大切である。
森田正馬の言葉に「不安常住」というのがある。
人間、生きていくために不安はつきものだということである。
たとえば横断歩道を渡る時には赤信号で立ち止まり、青信号になると歩き出す。
これは習慣になっていて、誰もたいして気にとめないことであるが、その行動は実は交通事故に対する不安がさせているのである。
つまり、不安を実生活に生かしているだけであって、ことさらに不安だからそうしているという意識はない。
ごく当たり前の行為として素直に受け、行動している。
不安はこのように、人生において誰にも存在するものであるが、また、不安が存在するために人生に失敗が少なくなるということもできる。
健康な人、建設的な人は不安から逃げるようなことはしないし、不安に戦いを挑むようなこともない。
不安を「あるがまま」に受け入れるだけでなく、実生活に活用しようと努力しているのである。
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