気遣いが疲れる人の心理
気遣いが疲れる心理
気遣いが疲れる人の心理としては、他人に嫌われるのが怖く、いい子であろうとしすぎたためである。
日常生活の中で小さな満足を感じられないのは、不幸だからである。
辛いという感情的特徴の一つに「満足の減少」がある。
泣くことが多い人とそうでない人では、心理的に日常生活がそれほど違うわけではない。
しかし気遣いが疲れるか、疲れないかの満足は全く違う。
日常生活に満足がないのは、日常生活の具体的事柄そのものに問題があるというよりも、その日常生活をしている人のパーソナリティーに問題があることが多い。
幸せなら、日常生活の中の小さな満足に気付く。
だから、心の底に不満がわだかまることはない。
困難な状況に際して、エネルギッシュな人は1ミリずつでも回復しようとする。
不幸な人は、まだできることが残っているのに、それをしない。
ゲームは終わっていないのに、気遣いが疲れる人はゲームは終わったと言う。
「Game is over」になりがちである。
生きるエネルギーのない人は、逆境で逆転満塁ホームランを打とうとする。
1ミリずつ回復しようとしない。
そして「この困難で私は不幸」と言う。
しかし困難が問題なのではなく、困難を少しずつ具体的に解決しようとしないパーソナリティーが問題なのである。
悩んでいる人は問題を解決しようとしない。
とにかく悩んでいる人は具体的な解決への意志がない。
対人関係で悩んでいる人は、気遣いが疲れる。
つねに「私は解決するつもりです」という動機の強調して疲れるだけで、自分が具体的に動いていない。
相互親密性ー出会いの瞬間
ある日、タクシーで運転手ととりとめのない会話をした。
気遣いの無い、楽な会話だった。
そこでわかったことは、仕事だけが人生に張りを与えてくれるわけではないということ。
遊び、時間つぶし、雑談のようなレクリエーション的な時間の使い方もある。
これは責任のない世界であるから、気楽にものがいえる。
それゆえ気晴らしになるのである。
自分の個性をフルに表現することが許されている世界である。
儀式的な生き方よりずっと人間味のある世界である。
活動のように役割意識に縛られないから、「人間みなきょうだい」といった感情体験もしやすい。
遊びの世界はある意味では人間性回復の場面であるともいえる。
気遣いも元気になる。
しかし再び、過ぎたるは及ばざるが如しである。
遊びや雑談しかしないとなればー強迫的ー人生への自分の責任を回避していることになる。
モラトリアム状態に定着し、おとなであることを拒否していることになる。
生きるということは、自分で行為を選び、その結果に対しては責任を果たすことである。
遊びや雑談にはそれが欠如している。
それゆえ、遊びや雑談には本音と本音の交流があるから、それが生への意欲の源泉になることは認めるが(たとえば老人同士の囲碁)、一方、人生に対して生産的な行為でないことも間違いない。
そこで時間の使い方ー人生の送り方ーの最後のものとして、相互親密性を挙げねばならない。
引きこもりから抜け出て外界に自己を表現していく。
しかし、儀式のようなありきたりの表現ではないし、活動にありがちな義理や立場上の表現でもない。
また時間つぶしや気遣いの薄い娯楽のように無責任な出たとこ勝負の感情発散的な表現でもない。
そういう瞬間が人生にはある。
それが出会いである。
しかし、過ぎたるは及ばざるが如しで、いつでもどこでも誰とでも出会いを味わおうとするとこれは強迫的である。
いつでもどこでも誰とでも出会いを味わうということは現実的にはありえないことである。
たとえば仲のよい親子でも、子どもが第二反抗期になると、お互いにある時期は当たらずさわらずになる。
もしこういう親子に出会いがあるとすれば、それは多くの場合、表面的には喧嘩としてである。
疲れる気遣いや遠慮もしない喧嘩もたしかに出会いではあるが、より根元的、より基本的な出会いは愛による出会いである。
けんかによる出会いは愛による出会いの前哨戦である。
しかし、喧嘩別れということばがあるように、喧嘩が愛に発展しないばかりか、表層的なつきあいすら失われることがある。
それはやむを得ないと考えなければならぬ。
人生とはそうしたものである。
離婚がその例である。
こう考えてくると、出会いとかふれあいというのは永遠不滅のものではないということになる。
人生のすべてのものは流動している。
ひとところにじっととどまってはいない。
日々に新たなのである。
ふれあいとて例外ではない。
これがかえって私たちの人生をマンネリから救ってくれている。
心とこころのふれあいー実存的瞬間ーはいわば人生の甘露である。
甘露は疲れない。
甘露は握ることができない。
消えやすい。
しかし、次の瞬間また現われる。
絶えず新鮮である。
私の表現は文学的になってしまった。
話をもとに戻そう。
私はタクシーの運転手と心のふれあう元気になる気遣いの瞬間を体験した。
しかしその後会ってはいない。
今度会った時前回と同じふれあいや気遣いがあるかどうかはわからない。
あればそれにこしたことはない。
なければないままに会話するであろう。
そのうちまたふれあいの機会がおとずれるかもしれない。
しかし、おとずれないかもしれない。
もし私が前回と同じふれあいをもとうと努力すると、それは気遣いが疲れる執着である。
べたつきである。
心の触れ合いはあるがままの自分を許容し、あるがままの自分を表現しているうちに、自然に湧いてくるものだと思う。
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